Madeira Islandマデイラ島について
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What kind of island is Madeira?マデイラ島ってどんな島?
マデイラ島の基本情報 Basic information
リスボンから南西に約970km、アフリカ大陸のモロッコから西へ約650kmの大西洋上に浮かぶ小さな島・ポルトガル領マデイラ島。
その美しさから「大西洋の真珠」と呼ばれる、山と緑に囲まれた欧州のリゾート地です。
北緯はロサンゼルス(USA)と、南緯はパース(オーストラリア)やブエノス・アイレス(アルゼンチン)と同じ位置です。
島には、標高約1,800mのピコルイヴォ山など、冒険心をくすぐられるスポットが数多くあります。
コバルトブルーの海が広がり、陸地のすぐそばで鯨を目にすることも!
中心都市は、フンシャルです。人口10万人。15世紀に建てられた大聖堂や、マデイラ島固有の植物と世界中から持ち込まれた植物を集めた植物園など、独自の文化と見どころが満載です。
また、サッカー選手のクリスチアーノ・ロナウドは、マデイラ島の出身です。フンシャルには、CR7ミュージアムや銅像があり、英雄的な存在だということがよく分かります。
その美しさから「大西洋の真珠」と呼ばれる、山と緑に囲まれた欧州のリゾート地です。
北緯はロサンゼルス(USA)と、南緯はパース(オーストラリア)やブエノス・アイレス(アルゼンチン)と同じ位置です。
島には、標高約1,800mのピコルイヴォ山など、冒険心をくすぐられるスポットが数多くあります。
コバルトブルーの海が広がり、陸地のすぐそばで鯨を目にすることも!
中心都市は、フンシャルです。人口10万人。15世紀に建てられた大聖堂や、マデイラ島固有の植物と世界中から持ち込まれた植物を集めた植物園など、独自の文化と見どころが満載です。
また、サッカー選手のクリスチアーノ・ロナウドは、マデイラ島の出身です。フンシャルには、CR7ミュージアムや銅像があり、英雄的な存在だということがよく分かります。
マデイラ島の基本情報
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首都
- フンシャル
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面積
- 801km²
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人口
- 26.78万人
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言語
- ポルトガル語
マデイラ島の気候 Climate
マデイラ島は「常春の島」と言われています。年間平均気温は22℃前後。南北、高低で異なる「マイクロクライメット」と呼ばれる気候です。
例えば、島の南側は晴天が多く温暖、北側は雨が多くひんやりしています。冬でも標高の低いフンシャルでは10℃を切ることはありませんが、標高の高いところや山頂では雪が降ることがあります。小さな島なのに多彩な表情を持っています。
History of Madeira マデイラ島の歴史
ポルトガル大航海時代の1418年、ジョアン・ゴンサルヴェス・ザルコとトリスタン・ヴァス・ティシェイラ、バルトロメウ・ペレストレロが嵐で漂流。マデイラ諸島のポルト・サント島に漂着しました。
その翌年の1419年に、マデイラ島を発見。1420年からエンリケ航海王子よりマデイラ島の監督権を授かり、入植を開始。ブドウ、小麦、サトウキビを島に植えました。
しかし、島は植物で密生していたため、栽培地確保のために森を焼いたところ、火は島全体を覆い、7年間も燃え続けたと言われています。
その後、「レバーダス」と言われる水路も完成し、水が行き渡るようになったことが、耕作地の少ない島での農業を可能にしていきます。
サトウキビの栽培により、マデイラの砂糖は世界を席巻するようになります。しかし、ブラジルの開拓により値段が値崩れを起こし、マデイラの砂糖産業は次第に陰りをみせます。
その翌年の1419年に、マデイラ島を発見。1420年からエンリケ航海王子よりマデイラ島の監督権を授かり、入植を開始。ブドウ、小麦、サトウキビを島に植えました。
しかし、島は植物で密生していたため、栽培地確保のために森を焼いたところ、火は島全体を覆い、7年間も燃え続けたと言われています。
その後、「レバーダス」と言われる水路も完成し、水が行き渡るようになったことが、耕作地の少ない島での農業を可能にしていきます。
サトウキビの栽培により、マデイラの砂糖は世界を席巻するようになります。しかし、ブラジルの開拓により値段が値崩れを起こし、マデイラの砂糖産業は次第に陰りをみせます。
一方、ブドウ栽培は、1450年の文書によると入植の初期に「マルヴァジア・カンディダ」が、ギリシャのクレタ島から持ち込まれたと記載があります。すでに、ワインの輸出についての記述があり、島への入植後25年以内には、マデイラワインの輸出が始まっていたことを証明しています。
16世紀になると、サトウキビ農園はブドウ農園に姿を変え、ワインの生産が盛んに。17~18世紀は、マデイラワインの生産量と輸出量が順調に伸びていきました。ヨーロッパだけではなく、植民地として開拓したアメリカでも、マデイラワインの名声はますます高まっていったのです。18世紀半ばには、発酵途中の「酒精強化」によりアルコール発酵を止め、甘さ(味わい)を調整する現在のスタイルの確立と、人工的に行う熱処理「エストゥファ」の技術が導入され、これらの技術がマデイラワインの発展に大きく貢献しました。
16世紀になると、サトウキビ農園はブドウ農園に姿を変え、ワインの生産が盛んに。17~18世紀は、マデイラワインの生産量と輸出量が順調に伸びていきました。ヨーロッパだけではなく、植民地として開拓したアメリカでも、マデイラワインの名声はますます高まっていったのです。18世紀半ばには、発酵途中の「酒精強化」によりアルコール発酵を止め、甘さ(味わい)を調整する現在のスタイルの確立と、人工的に行う熱処理「エストゥファ」の技術が導入され、これらの技術がマデイラワインの発展に大きく貢献しました。
19世紀になると、ヨーロッパの戦争やアメリカの南北戦争の影響で、マデイラワインの消費量は減少していきました。また、19世紀後半には、世界中のブドウの木がフィロキセラやうどん粉病によって壊滅的な被害を受け、マデイラ島も被害に見舞われました。その際、ティンタ・ネグラを導入し栽培するように。危機的な状況にも関わらず、地道な努力によりマデイラワインの生産は、見事に復活を果たしました。その後も第二次世界大戦、ポルトガルの「カーネーション革命」、EUへの参加など、大きなできごとがありましたが、マデイラすべてのブドウ生産者とマデイラワインの製造者は、日々、情熱をもってワインの品質向上に努めています。
マデイラ島のお酒
マデイラ島では、マデイラワインはもちろん、スティルワインやマデイラ産のサトウキビを使ったラムを製造しています。そのほか、ジンや地ビール、ベルモットなども造られています。
また、マデイラワインの樽は、スコッチウイスキーの熟成に用いられることがあります。
木下インターナショナルでは、マデイラワイン以外も、これらマデイラ産のお酒を取り扱っています。